2013年4月15日月曜日

句楽詩 4月号
 

ペン画:加藤 閑『干し柿』
 
さとう三千魚・「はなとゆめ」12
  加藤 閑  ・逃げ水
  古川ぼたる ・ひとの岸辺
         言葉を生きる(7)



さとう三千魚 「はなとゆめ」12

水色

木洩れ日のなかに
モーツァルトの地獄があります

ブレンデルは
幻想曲 ハ短調 K.396から
ロンド イ短調 K.511の小道へ抜けていきます

チキンスープ食べました
わたし今日もチキンスープ食べました

コンソメと
チキンと
舞茸と
漂白剤を買わなきゃ忘れずに

木洩れ日のなか
小道へ抜けていきます
アスファルトのうえにモコはしゃがんで放尿して
上目遣いにわたしを見ます

ブレンデルの瞳がわたし好きです
ブレンデルの瞳がわたし好きです

木洩れ日のなかこの世に起こったことすべてを見た
瞳で
沈黙して
口籠って
ブレンデルはそして笑いました

アルフレート・ブレンデルの眼鏡の奥の瞳が笑いました

子供の
日の
夏の
雄物川の
川底の
魚たちと

川底から水面を見上げたとき太陽が光っていました
川底から水面を見上げたとき水面に太陽は光っていました

水色はすべてだと思いました
光り輝やいていました

そして
わたし口籠って

わたし
笑いました
そしてわたし笑いました






加藤 閑  逃げ水


青空の縁錆びはじむ春の暮

桃咲きて道やはらかき故郷かな

母の着物桜のしたに横たはる

遠足の列から列へ鳥ことば

黒揚羽わが少年期を横切れり

東京の幸薄きひとの花ぐもり

劇場の奈落にあまく春よどむ

燕には双といふ字を書きにけり

行く春やあたらしき町地図にあり

逃げ水の消え去る先を過去といふ
 



 
古川ぼたる  ひとの岸辺



それはインドシナ半島
ベトナムだったかカンボジアだったか
記憶があいまいになってしまった
ラジオがそこを *注
ひとの岸辺といっていたのを
思い出します
ちょうど近所の
空家になった農家の前の
岸辺が草の色に染まり
大きなこいやふなを迎えて
にぎやかに卵を抱く頃
いつの時代のことだったのか
子供ができない夫婦の話でした

・・・・
あたりはいつものようにまだ
うっすらと夜が残っているけれど
ふたりは田んぼに出かけました
田んぼのあぜは草で埋まり
朝露にぬれ
まさかこんなところに
赤ちゃんが捨てられているとは思えません
けれどもその赤ちゃんは
子供ができないふたりを
待っていたように
大きく口を開けて叫びました
赤ちゃんの泣き声を聞いてふたりは
まさかと思いながら
呼んでいる声を探しました
やっぱり赤ちゃん
泣く赤ちゃんを草のなかから抱き上げて
ふたりも泣きました

子供のできないふたりはとにかく
すぐに家に連れ帰った赤ちゃんを
大切に大切に育てました
けれどある日
幼児にありがちな
高熱を出して苦しみました
親になったふたりも苦しみました
どうにかして助けたいと苦しんだそうです
病院もなければ
医者もいない
遠い遠い村だったので
父親になったそのひとは
自転車の荷台に箱をくくりつけて
熱に苦しむ子を
くくりつけた箱に寝かせて村を出ました
夜明け前から一昼夜と半日
闇のなかの道端に寝て
少し休み
闇のなかの道端に起きて
母親になったそのひとは
拾って育ててきたその子が
苦しむ自転車について歩きました
夜明け前から一昼夜と半日
明け方の道端に食べ
明け方の小川に汗を洗ったといいます
歩いて
歩き疲れて
強い日差しに焼かれながら
行ったといいます
流れた汗は乾ききって塩になり
着いたといいます
初めて見る病院に
遠い遠い村を出てからの
一昼夜と半日の道は
ひとの岸辺だったとラジオがいってました
・・・・
行ったというのを聴きながら
着いたというのを聴きながら
わたしの涙もふくらんできて
ぬぐわないで
ひとの岸辺に
そのまま流してやることにしました

*注:数年前にラジオで聴き、話の筋だけが記憶にあります。



言葉を生きる(7)

『鼎談〈現代詩〉をもみほぐす そしてもっと詩を楽しむ 第2回』(鈴木志郎康氏、辻和人氏、今井義行氏)のなかで取り上げられていた鈴木志郎康氏の詩集『少女達の野』について、読むことの試行をしようと思いました。詩の一篇一篇について、自分自身のためのノートとして、またの日に振り返って新たな発見を付け加えられるように。詩を読むことの無償の楽しみとして。

処女の乳首

うれしい水に
足を浸して、波子さんは
せつない
――ナゼ、オ月サマバカリ見テイルノ
――痛みが引くから
波が血脈をしづめて
中空に浮ぶ円形の反射物
この反射光に身を浸していると
熱がないので
なにもかも静かに固まって行ってしまう
冷たく青く澄んでいく中にいると
温もりたい
なつかしいものがほしい
真紅の円形
隠されているあなたの処女の乳首
見てごらん
波は砂浜にくだけて消えはしない
浜から山へと稜線を辿れば
陸の波が見える
地表の波が見える
地表は波打っている
遠い時間を見透かせば
激しく波打っている
草原の草が海風に靡いているのとは逆向きに
明日は地震が来て
山稜が海に靡くだろう
反射を見ていればわかる
ぼくの痛みは
地底の断層の歪みなのだ
――オオ、波子サン
あなたの、高まる乳房の
朝日の、来迎の乳首をのせた高波で
波頭かがやかせ、その高波で、巻き込み、飲み込み、ぼくのからだをぜんぶ波動にしてほしい
青く冷たく澄みきったこの反射光の中で
真紅の、あなたの処女の乳首が
ほしい

一連36行の作品である。語られていることを整理する為に、意味の塊ができるところまででいくつかの行単位を作ってみる。

「うれしい水に/足を浸して、波子さんは/せつない/――ナゼ、オ月サマバカリ見テイルノ/――痛みが引くから」

カタカナ表記にされた問い掛けの主体は、語調から波子さん。波子さんが誰かに問いかけたら、「痛みが引くから」と答えた。水→波→(地球)→月が登場して、「痛み」が語られるべきモチーフとして始まる。波子さんは波平さんと夜の浜辺で語らっているのかもしれない。ハネムーンにしてはそっけない会話なので、違うのでしょう。「うれしい水」というのはどんな水かわからないが、納得させられてしまうし、波子さんというネーミングがユーモラスな軽さを感じさせる。が、次の行は重く沈む。

「中空に浮ぶ円形の反射物/この反射光に身を浸していると/熱がないので/なにもかも静かに固まって行ってしまう/冷たく青く澄んで行く中にいると/温もりたい/なつかしいものがほしい」

もちろん、中空に浮かぶ円形の反射物はオ月サマ。月を意味的な像として提示し、その意味を受け取る主体の状況を作り出す。次の行為・言葉へと転換を促すために。月光のなかでは太陽がなつかしい、温もりたい。

「真紅の円形/隠されているあなたの処女の乳首」

さて、「円形の反射物」が月ならば、「真紅の円形」は像としては太陽。その間にある地球、海。ところがすぐに「隠されている処女の乳首」と続けて、並列する。語り手であるぼくを温めるなつかしいものは太陽ではなく、処女の乳首だと人間のほうに引き戻す。

「見てごらん/波は砂浜にくだけて消えはしない/浜から山へと稜線を辿れば/陸の波が見える/地表の波が見える/地表は波打っている」

処女の乳首をもったあなた=波子さんに「見てごらん」と語りかける。波が砂浜にくだけるのを、誰でも知っている。消えることなく寄せ返す波が続く。けれども、同じように地表の波を見ることはできない。見えない地表の波を、あなたに見てもらうにはどうしたらいいのか。ここが詩人の想像力、万年の時間を秒に縮めて見ればいい、言葉でしかできない映像だ。

「遠い時間を見透かせば/激しく波を打っている/草原の草が海風に靡いているのとは逆向きに/明日は地震が来て/山稜が海に靡くだろう」

万年の時間を秒に縮めて見る地表の波とは地震。海風が陸に向かって吹いている。しかし、「明日は地震が」来るという、それがどうしてわかるのか。わかるためには「ぼく」が地震の原因であればいいことになる。論理的な展開。

「反射を見ていればわかる/ぼくの痛みは/地底の断層の歪みなのだ」

地底の断層が歪むからぼくは痛むのではなく、ぼくは歪みそのもの。因果関係ではない。「反射を見ていればわかる」。太陽光の反射である月の満ち欠けは地球の水面と地表を引っ張るから、地底の断層の歪みである「ぼくの痛み」具合で、それが地震を引き起こすかもしれないことがわかるのだ。ぼくは活断層の歪みだ。

「――オオ、波子サン」

このカタカナ表記の発語の主体は「ぼく」だろう。と、すると、4行目の「――ナゼ、オ月サマバカリ見テイルノ」というのも「ぼく」なのか。このばあいの「――波子サン」は続く行を読むと「ぼく」であるとするのが自然だが、4行目はやはり、波子さんの言葉としておきたい。「ぼく」が「オ月サマバカリ見テイル」ので、波子さんは「せつない」と。

「あなたの、高まる乳房の/朝日の、来光の乳首をのせた高波で/波頭かがやかせ、その高波で、巻き込み、飲み込み、ぼくのからだをぜんぶ波動にしてほしい/青く澄みきったこの反射光の中で/真紅の、あなたの処女の乳首が/ほしい」

朝日にきらめく波。波子サンを海の波の擬人化とし、ぼくを波の寄せ来る陸の擬人化というようにしてしまうこともできるが、波子さんとぼくの間に、なにがしかの物語が展開されたわけではない。「ぼくのからだをぜんぶ波動にしてほしい」、「あなたの処女の乳首が/ほしい」という「ぼく」の欲望が書かれて終わる。言葉を地球規模に運動させた詩、という印象。

月と地球(海・地表・地底)と隠れた太陽との関係が、ぼくと波子さんのわずかな会話をはさみ、「ぼく」が地の文を語るという構造になっている。
「うれしい」→「水」→「浸す」→「波」→「せつない」→「月」→「痛み」→「血脈」→「反射光」→「熱」→「固まる」→「温もり」→「なつかしいもの」→「真紅」→「処女の乳首」→「山」→「稜線」→「陸」→「地表」→「波打つ」→「時間」→「海風」→「地震」→「地底」→「断層」→「歪み」→「波動」。
詩は発語の周縁を手繰り寄せ、手繰り寄せられた語彙が指示する物の論理や感情の論理を展開させることで力強く現実感を表出する。詩のモチーフは「断層の歪み」である「ぼくの痛み」。

この詩のために書き下ろされた散文「野ノ録録タル」には、次のようなことが書かれています。昭和19315日発行、ヴォーン・コーニッシュ博士著・日高孝次訳『海の波』を読んだことが語られている。コーニッシュ博士は移り住んだ海岸から見る海の波、川底の砂の波などに魅力を感じ、「私の時間は私が勝手に使っても構はない」、それで、その波動現象を研究しようと決心する。しかし、数年するうちに、美しい家を捨てて波の研究の旅に出るか波の研究を放棄するかの選択を迫られることになるが、波の研究をするために旅に出る。

『「私の時間は私が勝手に使っても構わない。」わたしはこのことばに直撃弾を受けた。』とある。また、『それにしても、コーニッシュ博士の本を読んでいると、風速を時間で表すなんて、余裕があっていいなアと思ってしまう。「私の時間は私が勝手に使っても構わない」ってわけなんだろうな。』と結ばれている。

自分に与えられた時間をぜんぶ自分の勝手=自分だけのものとして使えたら、という願望を持っていながら、そうすることなかなかできない。現実の生活を支えるために稼がなくてはならない時間、現実の生活を支えるために身の回りの家事やらなにやらをしなければならない時間、自分の時間でない時間の方が、大概の人の生活では圧倒的に多い。
詩の中の「ぼく」はそういう日常を支える時間の層と自分が勝手に使える時間の層との断層=その歪みを宇宙的な言葉にしている、と読むことが出来るのだった。