2013年3月15日金曜日

句楽詩 3月号



ペン画:加藤 閑 『ピーマン』
 
加藤 閑  ・雀の巣
さとう三千魚・「はなとゆめ」11
古川ぼたる ・きょうは良き時
       言葉を生きる(6)


加藤 閑  雀の巣


地図よりも時間の果ての雪の駅

自転車の車輪の錆に春兆す

少年とからすが狙ふ雀の巣

残雪のなまあたたかき影に入る

わき腹に一本の風春来たる

大寺の蝶参道の砂利に棲む

鍵穴にからだを入れる春の夜

盗賊の爪に花粉の残りたる

山を焼く麓にこども生まれけり

貝寄風に耳ふさがれて鬼となる



 
 
さとう三千魚 「はなとゆめ」11


地上の楽園


息を吐き
息を吸う
 
息を
吐き
息を
吸う
 
気づいたら
息してました
 
気づいたら息をしていました
気づいたら生まれていました
 
わかりません
わたしわかりません
わたしこの世のルールがわかりません
 
モコと冬の公園を歩きました
 
モコの金色の毛が朝日に光りました
モコの金色の毛が朝日に光りました
 
いまは
言えないけど
いつかきっとモコに話そうと思いました
 
モコ
モコ
なにも決定されていないところから世界が始まるんだというビジョンは
いつかキミに伝えたい
いつかキミに伝えたい
 
息を
吐き
息を
吸う
 
息を吐き
息を吸う
 
モコと冬の公園を歩きました
モコと柚子入りの白いチョコレートを食べました
モコの金色の毛が光りました
モコの金色の毛が朝日に光りました
 
わたしはうしろからモコを見ていました
 
そこにありました
すでにそこにありました


古川ぼたる  きょうは良き時


よくいらっしゃいましたね
そんなふうに
きょうが迎えてくれて
それで、長生きの秘訣は
息をするのを忘れないことです *注
それ聞いて大笑いしながら
女房がオニギリを作ってくれた
この先たぶん一緒に過ごす時間が増えれば
この初老の男もたびたび邪魔になる
男がいなけりゃ女は気ままに長生き
女がいなけりゃ淋しいおれは
梅干とコンブの小さいオニギリを持って
息を忘れるバカがいるかね、なんて
悪態つけば息は苦しく
すっかり息を忘れて歩いてる
すっかり忘れてた

よくいらっしゃいましたね
そんなふうに
ここが迎えてくれて
ここは4、5千年前
海だったところ
一時間ほど歩いて
そのころからも
すでに陸地だったところに
木々に囲まれたオニギリは
あったかどうか
でも、そのころから
生け捕りした肉は焼いて喰ったさ
あのじいさんは焼き肉なんかも
歯茎で食べて
4,5千年前と笑顔は同じ
で、その入れ歯はいつ使うんですか
歯磨きする時です *注
それでまた、大笑いしたのを
思い出し笑いしながら
男や女が生まれる前の
空と水を見てると

よくいらっしゃいましたね
そんなふうに
きょうはよき日、今はよき時、とばかりに
この陸にあがった祖先は生きて
その子らの腹から続いてきた
きょう
いまここに
先祖の地面から伸びる
あの木はなんだ
あの枝のあそこがおいでおいで
あれシジュウカラ
あの枝のあれあれヒヨドリ
真菰のマガモ
マガモは首をひねられ
真顔で怒っても遅かった
焼いて喰われて羽根飾りになった
つらかっただろうな
喰った先祖は
うれしかっただろうな
先祖の祖先もうれしかっただろう
よくいらっしゃいましたね
きょうに会えて
うれしかったですね

*注:2月23日東京新聞、柏木哲夫氏の文章からの孫引きです。


言葉を生きる(6)

『鼎談〈現代詩〉をもみほぐす そしてもっと詩を楽しむ 第2回』(鈴木志郎康氏、辻和人氏、今井義行氏)のなかで取り上げられていた鈴木志郎康氏の詩集『少女達の野』について、読むことの試行をしようと思いました。詩の一篇一篇について、自分自身のためのノートとして、またの日に振り返って新たな発見を付け加えられるように。詩を読むことの無償の楽しみとして。

オレの側と極小の黒烈光

[オレの側]
 *
早く目が覚めてしまったら
鶏の鳴声を聞いてしまった
いつ、つぶされて、くわれるのか
鶏はそんなこと思っちゃいない
オレも思っちゃいない
いつになく早起きした
ふとんの端に漂着した他人のオレだからだろう

タイトルと第一連。確認の意味で「極小」を広辞苑で引くと、「1.極めて小さいこと。2.ある関数の値が、変数の或る値の近傍で最小となること。グラフで表せばそこで谷になる。すなわち、p0の近傍内の変数値ppp0)に対し、関数の値がf(p)f(p0)であるとき、関数fp0で極小であるという。」
私は算数=加減乗除しか知らないが、きっと作者は「極小」を2の数学的な意味を含ませていると思えるので、言い換えてみる。「とある日を言葉にすれば、個を取り巻き、カオス的に言葉が氾濫してくるが、固有な発語として身体に手繰り寄せられるとカオス的な言葉の近傍で最小となることを極小であるという。すなわち、イメージで表現すればそこで個になる」。
こうすると、この詩が書かれた意識に少し近づいたような気になれるのですが、さて。

「早く目が覚めてしまったら」。早く目が覚める、ということから→夜明け前から鳴く早起きの鶏→鶏がつぶされて→くわれる、連想ゲームみたいに、ユーモラスに始まる。
「ふとんの端に漂着した他人のオレだからだろう」は自分らしくない目覚めを、いわば、自分らしくない連想で発語を思い浮かべた、というところか。しかし、実は用意周到なのです。[オレの側]を最終まで見渡すと、「早起き」や「鶏」、が無数に可能な言葉のなかから選択され、「早起き」や「鶏」でなくてはならない理由が鮮明になってくる。

オレは
彼女の
赤ムクレ
さわらないで
優しく包んで抱いて
オレは
彼女の
醒めた赤ムクレ

2連。「ムクレ」は(むく)れる、と解して、ムクレ金玉、みたいに。皮がむけて、内部が露出した状態。それが、赤ムクレなので、感じやすい。早く目が覚めて、自分らしくない目覚めの気分を、感じやすい、新鮮な感覚として、ユーモラスにむくれた鬼頭のようにエロく。1連目の「他人のオレ」の「の」は所有格なので、他人は誰と思いきや、「彼女の/醒めた赤ムクレ」として、オレと彼女の物語へと展開する。

  *
(あじさいが雨に濡れてきれいだ 平穏できれいだけれど)
汚雨が現象している雲と地面の間の
その地球の人間の生息する表層を
彼女の皮膚から引き剥がして
そこに
オレは赤ん坊になって
唇寄せる

3連。「皮膚」には「ハダ」とルビ。
( )に囲まれた部分は現実、目前のあじさいとし。2連目の「彼女」とこの3連目の「彼女」とは同じ「彼女」なのか。3連目だけを取り上げれば、「彼女」は「地球」の隠喩となりそうだが、そうではないような気がする。その景色を、固有に引き寄せて言葉にする時、「地球」と「彼女」を対応させ、「表層」と「皮膚」を対応させている。
女性の皮膚と地球の地面を象徴的に結合させる為に、事物の論理を使っている。
母なる大地「地球」≧母になれる「彼女」、地球のハダとしての「地面・表層」≧地球のハダになれる彼女のハダ「表層・皮膚」という関係が自然に受け入れられる書法。
母なれる「彼女」≧「赤ん坊」なれるオレ。母の「皮膚」≧赤ん坊の「唇」と対応させる。地球から赤ん坊までの関係の意味を彼女を関数として、自在に拡大縮小する書法は鈴木志郎康さんが作り上げた固有な表現方法だと思う。
2連目の「彼女の/赤ムクレ」が地球の表層≧彼女の皮膚を手にした赤ん坊に変身する。

月寄りに立っていられましたね
お顔に水紋の反映が揺れてました
ああ、水際に
あなたはあなたの匂いに気化なされて
オレは吸い込む
吸い込む、あなたの御足の指まで
歌って下さい
オレの体腔の中で

4連。「月寄りに立っていられましたね」なんと、美しいおことばでしょうか。さらに「お顔に水紋の反映が揺れてました」と続くのだ。高貴なおふたりの密会シーンでしょうか。極めつけは「ああ、水際に/あなたはあなたの匂いに気化なされて」。
言葉を天空に放ち、逢瀬の抒情的なシーンなのです。赤ん坊は既に赤ん坊ではなくなっています。月は地球の海から水を滴らせて昇る。月と水とあなたの匂い。天空の逢瀬の場面を、身体に取り込んでしまうには、あなたの全てを匂いに変えて、体腔の中で歌わせる。どんな歌なのだろう。この連だけで一篇の抒情詩ですが、・・・。このシーンは、主体の「魂ふり(魂を回復させる)」儀式ではないかと思いました。その訳は後述します。

「彼女の稲間と合わないのだ」
と来た
イネカン
オレにもわからない
あなたはいない

5連。「稲間」には「イネカン」とルビ。「稲間」という漢字表記と「イネカン」というカタカナ表記、漢字と音のアンマッチなおかしさ、意味の切断。「オレにもわからない/あなたはいない」。
1連目からの「早起き」、「鶏」、「赤ムクレ」、「雨」、「地面」、「赤ん坊」、「月」、「稲」という語彙は稲作を連想させる。稲作を続けてきた日本列島の深層に残る感性を刺激する語彙なのだ。4連の天空での逢瀬をイメージさせる時の言葉の運びも深層の感性を呼び起こすのを手伝っている。そして、天空で逢瀬した彼女とは「稲間(イネカン)」が合わないために、「オレの側」は終わる。が、「あなたはいない」ことによって、失意が残される。

・・・以下は牽強付会ですが、「稲間」を想像してみます。
稲はそのまま稲として、「間」には、時間、空間がある。日本列島の稲作は南の沖縄なんかだと二期作をしているが、北上するに従って作付は1回。「オレ」が南なら「彼女」は北。その逆も考えられ、稲作の時空間が違う。それから、日本的抒情は稲作文化から生まれた抒情なのではないでしょうか?すると、天空の逢瀬=月寄りに立ち、頬に水紋を写す、そんな抒情とはハダが合わない、と遮断することできます。
日本の稲作の故郷は東南アジアだそうだが、その東南アジア南部のクメール族の「魂ふり行事」では何人もの女性が音曲に合わせて踊り、彼女らの体内に夫や父母の魂を呼びこみ、呼びこんだ魂を回復させるという。それが大嘗祭の由来ともいわれてます。(岩田慶治「日本文化のふるさと」)
ここでは「オレは吸い込む」「歌って下さい/オレの体腔の中で」が、あえて言ってみれば、主体の「独り魂ふり」が語られているのだと思う。

[極小の黒烈光]
 *
あいたい人は
あいたい人は
あいたい人は
去ぬ乙女子を求めて、北に、地下鉄の
自動階段に足は留まってしまった
(あなたの匂いを憶えてます)
ユリの匂いを追い西に沈み
地下道を南に這い走っても
人は誰にも気がつかない
ユリは店先で根を切られ
腐臭に変わる香りは買わない
(実は、咲きかけの一茎買ってしまったのです)
今は橋の上に来てみれば
眼は両岸から逃れて
川には一滴の水もない
(乾いた川底にユリは投げ捨ててしまいました)
あいたい人は
あいたい人は
四辻の角にうずくまり
舗装路面に手をついて
足元の砂塵の砂粒の一粒を
指先の先に拾い上げると
それが異常に光っていた

6連。「オレの側」のユーモラスな言葉の運びとは一転して、「求めて、」「留ってしまった」「西に沈み」「走っても」「気がつかない」「切られ」「買わない」という行為と行為の否定的な語調、失意が言葉から言葉を切り開く。「あなたはいない」からだ。
「あいたい人は」、「去ぬ乙女子(いぬおとめご)」。(いぬおとめご)という文語調で場面を転換させ、その去って行った乙女子を探し求めて、地下鉄のエスカレーターに。「自動階段」とあえて言い換え、自己撞着語のユーモア。エスカレーターはなんとも愉快で恐ろしい装置だが、それを日本語的に言いかえれば自己撞着する、クスリと笑わせる。
(あなたの匂いを憶えてます)。天空の逢瀬で吸い込んだ匂い。初夏の花、ユリの甘い香気。ゆりは古語では「後(ゆり)」だそうだ。気化したあなたの後(ゆり)の体腔の中の匂い、ユリ。
[オレの側]は目覚めの時なので、主体は「東」側に位置付、「北」に向かった。ユリの匂いを追い「西」。地下道を「南」に這い。時計とは反対回りに、東北西南と周回する。東西南北の交点が四辻となって、そこが求める点にいる「あいたい人」は砂の一粒の光。

極小の強き光は、去ぬ乙女子の
瞳の光でない筈はないでしょう
澄み切った黒き光は
吸引力を放射しているのですから
あいたい人に
あいたい

最終連。「極小の強き光は、去ぬ乙女子の(きょくしょうのつよきひかりは、いぬおとめごの)」5音7音7音と75調とし、日本語に連綿と続く韻律によって、現代口語に不協和音を挿入し、結語へと促す。砂粒の一粒は「去ぬ乙女子の/瞳の光」。「吸引力を放射している」「極小の黒烈光」。砂粒に乙女子の瞳の光を見る。「オレの側」が生命の「側」とすれば、「極小の黒烈光」は生命をもたない物質で語られている。その生命を持たない物質に、生命を吹き込むべく発語を持続させている。言葉遊びを絶え間なく繰り出し、生命と非生命の存在を言葉が生きる場へと包摂したい欲望によって詩を現前させている、そのように思えた。

この詩も、前回の『光、凝る』と同じような、目覚めの場面から始まる。『光、凝る』は19875月の「ト、ヲ(止乎)1号に発表され、これは同年7月の2号に発表されている。     
発表された季節から、季節を反映させた事象、事物が書かれている。が、『光、凝る』が実際に家族で河原に散策に出た時のことを書いた詩というよりも、発語を持続させるために、書かれた結果の詩であったように、この詩も発語を求め、発語意識を持続させるために、言葉がいくつかの場面を描いている。『光、凝る』では、きいろい光の中にヘラオオバコを見つけ、花に語りかける場面があったが、この詩では砂の一粒を、極めて小さな黒の烈しい光=「去ぬ乙女子の/瞳の光」に変貌させ、命を持たない物質に生命を吹き込んでいる。前回の「野ノ録録タル」に登場したアニミズムが語られている。

この詩に書き下ろされた散文「野ノ録録タル」には、あわただしく切り盛りした一日の様子が微細に、掌編小説のように書かれている。それは、その日に昼食に食べた蕎麦屋は、以前にも入って食べたことがあり、ひどくまずかったのを憶えているのに、また、入ってしまうまでの失敗談なのだが、住居の隣で、土木工事が始まり、その地響きと騒音で、原稿が書けない状態になって、何とか折り合いをつけ、静かになったところで7枚の原稿を仕上げた。そのなかに、「題は『カオスに向けて』とつけて、詩というのは自らが生きているところをカオスとして、そこに根を伸ばしてことばを汲み上げるものだと書いた。」とある。78日とあるから丁度、梅雨の最中だった。
人が生きている日常という時空を言葉にすれば、そこは言葉のカオス状態、そのカオスから魂を回復させる「魂ふり」が詩を書くということ、言葉でする「魂ふり」、魂の回復・再生を語っているのだと、読んでみました。