2012年11月15日木曜日

句楽詩 11月号
 
加藤 閑  ・・・神の留守
さとう三千魚 ・「はなとゆめ」7
古川ぼたる ・・言葉を生きる2
ペン画:加藤 閑「枯れ枝のブラシ」


加藤閑   神の留守
死にかねて蟷螂下界を覗き込む
雲晴れて蜜柑畑のかまびすし
理科室の窓開きたり神の留守
卵黄に秋の陽射してふるえたり
卓袱台に言葉はなくて菊膾
木の実落つ泥に埋もれし牛の背に
あけび熟れ巡礼の声遠ざかる
羚羊の眸に風の模様あり
秋霜や窓しずかなる薬瓶
引出の底に海あり嵐雪忌


さとう三千魚 「はなとゆめ」07
真昼の眠り
遠くで小鳥たちが鳴いていました
遠くで小鳥たちが鳴いていました

エロース  性愛
フィリア  隣人愛
アガペー  真の愛
ストルゲー  家族愛

古典ギリシア語で愛という言葉は四つあり
キリスト教で採用された愛はアガペーであるとウィキペディアにはありました

性愛や家族愛や隣人愛はすこしわかりますが
真の愛はわかりません

昨夜ぼたるさんに電話して
鈴木志郎康さんの早稲田大学の講演会の約束をして
原稿の約束をして
会社の仕事のことでクシャクシャになって純喫茶店で紅茶を飲んで
早々に届いた閑さんの原稿を見つめていました

神の留守とあった

真の愛とは人間の愛ではなく神の愛であって
神の愛は

神の愛は神の人間への愛であって
親の愛とはことなり神には触ったことがない
神には触ったことがない

母はベットに横たわったまま息子のわたしを母は見上げて
そして動かない顔を歪めて笑います
その皺くちゃの顔や細く痩せた手や脚をわたしはさすります
別れのとき母は動かない顔を歪めて泣きます
もう声を出して叫ぶこともできない母が顔を歪めて泣きます

わたしはこの現実がなにかの間違いなのではないかと思うことがあります
わたしはこの現実が真昼の夢の一場面なのではないかと思うことがあります

遠くで小鳥たちが鳴いていました
遠くで小鳥たちが鳴いていました

早々に届いた閑さんの原稿を見つめていました
早々に届いた閑さんの原稿を見つめていました

古川ぼたる  言葉を生きる(2)

「鼎談〈現代詩〉をもみほぐす――そしてもっと詩を楽しむ」(鈴木志郎康 辻和人 今井義行)は第2回が公開されているが、1回目で取り上げられていた、今井義行詩集『時刻(とき)の 祈り』を読んでなかったので、今井さんにお願いして送ってもらった。私にはこれが今井さんの詩集との初めての出会いとなった。つい最近からミクシィで今井さんの詩を読んでいるが、まとめて読むのは初めてです。それで、この詩集についての感想、と思ったが、なかなか難しく、読みながら思いついたことを断片的に書いてみました。

この詩集は冒頭の2篇と巻末に置かれた8篇を除く100篇は2010425日午前545分付「ひとの海へと流れつけば・・・・・・」から始まり、2010518日午前121分付「ふたたび・・・・・・」で終わっている。晩春から初夏に移る美しい季節の、24日間になんと100篇の詩が書かれたことになる。その量に驚き、その速度に驚いてしまう。
各詩篇に付された年月日/時刻は、インターネット上に公開された時間のようだ。古代の共同体では時間を支配するものが共同体の王だったという。現代という世界では時間そのものが王だ。この現代という世界から日付と時間をはぎ取ってしまえば、たちまち世界は崩壊する。今井さんは逆に個から日付と時間がはぎ取られてしまった状況、個の崩壊からこれらの多量の詩を書き続けたようだ。
その量と速度、やさしい言葉使い。そのように書かれていることもその量と速度に見合った、流れるようなやさしい事だ、と判断してしまった。それが、躓くことになった原因だった。謎のおおいフレーズがちりばめられている。言葉のやさしさについつい乗って、通り過ぎてしまっていた。

詩集は「自分で撒いた種」という詩で始まる。救急病院に運び込まれた「わたし」は治療を受けるために保証人を要求される。親族はいない身と偽るが、問い詰められ、老いた母親がいる事を告げ、母親に保証人になってもらう。そして、そのことで「その分 母の寿命を縮めさせることにならないか」と煩悶する。病院という社会の凝縮されたシステムのなかで、心理的な負債に過剰に反応してしまう「わたし」の視線は、利他的な行為に身を尽くす人たちをめぐり、「自分で撒いた種を 自分で刈らせてください/かみさま・・・・・・/自分で撒いた種を 自分で刈らせてください」と祈る。傷ついて何もできない肉体をもった「こころ」が利他的な行為に囲まれた時に、祈りが始まる。利他的な行為には、心を動かされる。率直に美しい。(それなのに、利他的な行為をしようとする時に、自分のその意思に偽善を見てしまうのはなぜだろう。偽善をみることで心の負債を負わなくて済むように、心の日常を保とうとするのだろうか?・・・と私自身を省みていた)。

2篇目の「紋白蝶よ」は、「真夏の午後の白日/青い空のなか/そこでこそ/飛翔して欲しいのだ」と始まる。この詩のなかで「〈紋白蝶よ/白いはねをもつすべての仲間へ/伝えて〉」と「わたし」は2度つぶやく。そして、「わたしたちよ」と呼びかけ、「娼婦を蔑むな/娼夫を蔑むな/からだにきちんと値がつく/ひとを蔑むな  しっかり抱く/しっかり愛す  うつくしいからだには/入墨のような/務めの跡があり  それは輝いている」と終わる。
青空を飛ぶ紋白蝶が突然、娼婦や娼夫に飛躍する。こんな風に言葉が飛躍する作者の想像力に何か隠されているのではないかと考えさせられる。紋白蝶の前翅には黒色の紋がある。それで紋白蝶という名前がついているという。その黒色の紋から入墨が連想されたと読めるが、娼婦や娼夫、特に娼夫が登場するところが謎なのは私が男だからか。
「からだにきちんと値がつく/ひとを蔑むな」という、なにか諭すような、戒律的な、いきなりの飛躍するフレーズと詩集のタイトル「祈り」、その口調から、聖書が思い浮かんだりした。福音書と言われる岩波文庫本をずいぶん前に読んだことがあった。思い浮かんだ場面は、姦淫を犯した女を聖書学者とパリサイ人が責め立てている場面でイエスが、もし汝らのうちで罪のないものがいるのなら、その石をその女に投げつけなさいと言うと、「彼らは皆良心に責められ」去っていく(ヨハネ福音書第八章)。
詩を読むという事はつくづく難しいと思う。なんとか作者に辿りつきたいと思うけれども。・・・・・・・・・、「彼らは皆良心に責められ」去っていく。なぜ、去っていくのか。罪を負っているから。「こころの底を/掘りさげて」詩を書かないから。こころの底を掘りさげていくのが困難だから。こころの底をあからさまにしてしまえば崩壊してしまう黙契を生きているから。そんな私を支えている黙契=日常が破かれたところに詩の言葉が出現している。

詩篇9「UNDER CONSTRUCTION」には、こう書かれている。「詩を書こうとして こころの底を/掘りさげていくことに 似ている」。この詩は鬱病との闘病を河川工事に喩えて語っているのだが、この『時刻(とき)の 祈り』は「こころの底」にある、その出自について多くを語っていると思った。
今井さんは鬱病の為に失職し、鬱病治療薬を服用し幻聴や幻覚を体験する。それと関係するように肉体的にも腰椎骨折、毎朝の嘔吐、火傷、脚の浮腫、癲癇、耳の根元の湿疹などが書かれている。
また、「僕は、両性愛者(バイセクシュアル)です。」とふつうは他人には隠すことをあからさまにする。それを証明するように男性との性愛、女性との性愛の交渉が書かれていたりする。そして、男性との交渉には「入墨」が登場する。詩篇「紋白蝶よ」に出てきた「入墨」が。「墨のカプセル」という詩篇では、墨の入ったカプセルを飲んで、「最初は おしゃれだった」が次第に止められず「粘膜のあちらこちらに点在しやがて皮膚にのぼる」、入墨になる。嘔吐、骨折、火傷、浮腫、湿疹などは肉体の異変なのだが、肉体の異変を心はどう受け止めるのだろう。肉体の異変を処罰として受け止めるのではないだろうかと思った。触れてはならない禁忌に触れてしまった罰として。
肉体の異変や入墨が象徴しているのは、心にとっては「自己処罰」のような気がする。また、そのことが心の出自の個体証明であり、そしてそこが今井さんの抒情の故郷なのか。詩篇32「むくんだあし、浮腫のこえ」は「わたし」のあしのむくみが「むくみ、というなまえのちいさな/むすめがうまれたようなきがして」くるというユーモラスで、なにか幼児が抱く肉体への普遍的な感覚を巧みに言葉にしている。
次に置かれた「苺の色」は「赤いスプレーを撒いただけの」その「苺の色」から広がる想念が書かれ「ねえ、死刑囚 殺めた殺めた 死刑囚/いつか逢ったなら 本当の気持ちきかせてよね」となる。この全てを肯定して生きたいという感情は「直感だったよ」と言う。親鸞は悪人正機と言ったそうだが、「世の中だれひとり酷いことなど為していない」というフレーズが自然に埋め込まれ、哲学的な直感の一瞬を救い出している難解かつ、そうだよねって、読者に言わせるような力が籠っている。

詩の置かれた順番が前後するが、詩篇23「ひるがえる様々な布」という詩篇は陽を浴びて風に揺れる洗濯物に「何通もの手紙」を想い重ねる。その一方で、詩篇29「こころひとつ からだひとつ」では紀伊国屋書店エスカレーター前で、インターネットで知り合った彼(ネコ)=女装っ子(プレーン)と白昼、レンタルルームを探し、同性愛を楽しむ。その前の詩篇28「おんなという一瞬」では、既に閉経した女性に手を握られた時に感じた印象から、「植物」を愛しむ女性が書かれている。愛むことが女性の本質であるとしながら、「おんなとわたしは そこで『離れる』」。なぜ、「『離れる』」のかしら。この連では、「おんな」は閉経した「彼女」ではなく、「おんなとわたし」の関係が書かれる。『離れる』のは、自分を「植物」として規定してしまうからで、「わたし」は最後に「巡査がたっている」のを見る。女性との自然な情愛関係に至らない「植物」である自分を背徳と感じるから、巡査を見てしまうように読める。が、「ネコ」=「女装っ子(プレーン)」と性的遊戯を楽しむことをあからさまに描く。

詩篇77「野垂れ死に」は野垂れ死にを「荒行のように感じながら」も「そう悪くはないとおもうのだった」。
今井さんはまるで即身仏行者のように肉体と身の回りのものを生きた時間とともに詩に救い出している。2010426日付けには12篇が集中的に置かれている。これが物理的な時間を意味しているのかどうかはわからない。わずか2分で一篇の詩ができるなんて考えられない。しかし、そのように詩篇が置かれている。2分で一篇の詩が書かれたのが事実かそうでないかよりも、このシステム上の時間に自然である肉体を出現させる為に、その日付と時間を確認しているように思える。

時間が無くなれば、私たちの社会はたちまち崩壊してしまう。世界中が大混乱し、世界そのものが成立しなくなってしまう。私たちの社会とそれを取り巻く世界は時間が成立させている。どんな小さな共同体でも時間が存在しなければ崩壊してしまう。なにも出来ない。
かつては共同体の支配者とは時間の支配者だったという話だが、現代は、時間こそがこの世界システムの支配者であり、王なのだ。時間が無ければ戦争は始められない、税金は取れない、誰も会社にも学校にもどこにも行けない。
世界から日付と時間をはぎ取ってしまえば、世界は崩壊する。世界システムの崩壊後のそこには自然が現れる。
私=個から日付と時間がはぎ取られれば、私というシステムが崩壊する。そこに人間の自然である肉体が現れる。
各詩篇に年月日/時刻を付したことは、作者が社会から自由になり、世界の外側に行って
しまうかもしれないという瀬戸際に立ってしまった裂け目を、肉体をもって語らせ、その
時間を生きたという実質を失わないように、記録したと思った。

この詩集には多くの食べ物が登場する。マーマレード、ジャム、メロンシロップ、かきごおり、ミルフィーユ、苺のゼリー、パフェ、鳴門金時、チョコレート、黒豆煮汁、らくがん、ドーナッツ、とんこつらーめん、ピッツァ、はちみつ、寿司、フランスパン、西京焼など。甘い食べ物が登場する詩篇では特に、ひらがなが多用され、やさしい言葉使いになっている。
子どもたちは甘いものが好きだ。人間の味蕾は乳幼児期には1万個くらい在り、成長して行くに従って多様な味覚を獲得して行くので、味蕾が増えていくような気がしたが、実際は逆に4、5千個に半減するそうだ。甘味は人間の一生で早くから感じ取ることが出来る官能ということになる。甘いものを食べる(想像する)詩では、とても安心して自足している。
詩篇30「たましいのよろこび」という詩篇では「たましいのよろこび」というフレーズが3回繰り返された後の、最終行「苺のゼリーがやわらく掬われていく」。この詩は「後の祭りがゆきのように降っている」と始まる。何か後悔の感情を寒さに喩えている抒情詩なのだが、その感情が「あなたのくちべにが/喉を降りる 感触をたいせつに・・・・・・」と口唇から体内へ「苺のゼリーがやわらく」すべり降りて行く時の官能によって成就される。

裸のサルは熱帯雨林に生まれたサルから進化した、という。そこではたくさんの果実が次々に熟して甘い匂いを放っている。どんな生き物も外の世界から異物を体内に取り込み同化させて、生存する。全く、驚きの摩訶不思議な存在だ。その外の世界を同化させる時に官能と安すらぎと満足感を一緒に手に入れる。目の前の果実の、その甘味、その色、その匂い、その口唇感覚、喉を通りぬけてゆく快感。その様子を想像すると裸のサルが初期の段階で、甘いという味覚・官能を手に入れたので、私たちも幼児期から甘いという味覚に官能すると思えてくる。

この詩集にたくさん出てくる食べ物のなかでも、甘いお菓子の肯定的なイメージは個体の幼児期の幸福感と裸のサル(人類)の幸福な記憶とが味覚という官能で再現されている。「ヴァニラのように微笑みたい」、「黒豆煮汁は果汁である/澄んでいます」、「メロンシロップのはっきりとした緑は/ほんとうに はっきりとしていていい」、「朝のひかりにきんいろにすきとおるはちみつを/うれしく食べていた」など、甘味は全てが肯定される。

では、苦味はどうか。苦味を官能するのは少年期を過ぎてからだ。詩篇48「フライト」という詩篇では「とんこつらーめん」が登場する。とんこつらーめんのスープをこう表現する。「-このスープは琲でいえば 所謂濃厚ブラック」。苦味である。そして、最終行は「こういうことだって ちゃんとした仕事なんだぞ」と冗談めかしながらもやや怒っている。苦味は矛盾を孕んだ官能として登場する。甘味が直接的に安らぎと光りを引き出し、苦味や辛さは矛盾やいら立ち、闇を引き出す。

甘味と苦味・辛味の中間はどうか。詩篇45「鶏がらスープのよるに」を読むと、そのスープは「こころに きらきらを/にごった金色は 美しく/よくできているものと想う」。そして抒情詩についての想念が述べられる。中間には想念が引き出されている。「嗚呼―― 「宮沢賢治」/「春と修羅」は気ままであった」。賢治は日蓮門下、法華経徒だったという。「雨ニモマケズ」も自己処罰と祈りの詩であると思うが、この詩集も自己処罰と祈りに加えて、「こころ」の出自証明があった。

個人の心の底にはその人の幼児期からの感性がどういう形でかわからないが、たたみ込まれ堆積しているのだろう。それを掘り起こすことはなんと困難なことか。同時に、それを掘り起こしていく時に、個人と時代を超えた心の在り方に出会う。個体発生は系統発生を繰り返すと言うが、『時刻(とき)の 祈り』を読んで、個人の心もまた個人と時代を超えた心を生きるものなのだと思った。