2013年6月3日月曜日


句楽詩 5月号
 
ペン画:加藤 閑 『胡桃』
 
    [古川ぼたる 追悼号]

    古川ぼたるさんが2013年4月28日、逝去されました。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。


  魚住陽子   ・水の挙手
  加藤 閑   ・もっと読みたかった
  加藤 閑   ・初夏の夜
  さとう三千魚 ・ぼたるさんのこと
  さとう三千魚 ・「はなとゆめ」13



 [古川ぼたる 詩・句集] 
※詩人の鈴木志郎康さんが最近のぼたるさんの作品を纏めてくださいました。



魚住陽子  水の挙手


寒明けの包丁が脱ぐ水の色

生臭き日は落椿踏んで行く

遁世の鯉のおかずの薄氷


家系図の裏にへの字と春の草


「猫いりませんか」と土筆の絵


舌下錠溶けだしている宵の春


往来に今生通る糸柳


春昼や伸び縮みする坂のあり


日常の四隅ひらひら桜の夜


花吹雪一人現われ二人消え


煩悩のこごみうつらうつらかな


春林で余所見している母の魂


ふらここが振り落とし影また纏う


三つほど輪ゴム飛ばして春愁ひ


囀っていれば終日よその国


退屈な春の味する一里飴


陽炎に耳生えてきて兄に似る


春の鳶別れは爪先立って聞く


山葵田の続きこの世の外に出る


カヤックに向く一列の水の挙手


追悼
逝くなとも言えず茎立ちの野末


加藤 閑  [追悼]  もっと読みたかった



4月28日午後、個展の最終日にぼたるさんの死の報せを聞きました。
狼狽しました。お通夜に出ても、次の日にはまた「椿日記」の書き込みがありそうな気がしてなりませんでした。
何日かして、『句楽詩区』のぼたるさんの詩と俳句を集めてプリントし、持ち歩く日が続きました。しかしぼたるさんの作品を外に向かって発信することはまったく思いつきませんでした。(わたし個人は、『句楽詩区』というものを、ぼたるさん、三千魚さんとの、三人での交感の場であればいいという気持ちが強かったのです)
鈴木志郎康さんが、作品をきちんとした形でまとめてツイッターにアップしてくれました。ありがとうございます。ぼたるさんは『句楽詩区』に鈴木さんの詩の丁寧な読み込みを連載していて、鈴木さんへのなみなみならぬ尊敬の念があるのを感じていました。その鈴木さんが手ずから作品をまとめてくださったことをいちばん喜んでいるのは、他ならぬぼたるさん自身だと思わずにいられません。

ぼたるさんは、以前いっしょにやった詩誌『ゴジラ』や『大岡越前』のときは、本名の中村登で作品を発表していましたが、今回『句楽詩区』では、古川ぼたるの名で詩や俳句を書いています。ご本人は、俳句も書くのだからちょっと俳味のある名前でもつけてみようという気持ちだったのかもしれません。しかし反面、長年詩を書くときに用いていた名前を変えるからには、なにか自分を変えたところで書こうという意志があったはずです。それはぼたるさんにとっては大切なことだったように思えます。

12月号の「ごろん」が出たときすぐ、この詩に感銘を受けたと話したことがあります。わたしには、『句楽詩句』のぼたるさんの詩は、これを境にして前と後ろとでは全然違うような気がします。「ごろん」以前の詩は、詩というものを書こうとして、詩にふさわしい言葉を選んでつくられているように思えます。しかし、「ごろん」から後は、もっと詩を自分の方に引き寄せてつくっていこうという意識で書かれている気がします。

ぼたるさんが、その前の11月、10月に詩作品を発表していないことを考えると、わたしには、このときぼたるさんに詩の表現というものを考えさせるなにかがあったと思えてなりません。直前の9月号に掲載された「9月の家路」という作品を見ると、いっそうその思いを強くします。13行の繰り返しで構成された詩らしい体裁がかえって窮屈に感じられ、12月以降の作品で発揮されている自由さのようなものがありません。

「ごろん」という作品では、最初は大根がころがっていることを当たり前に表していたごろんという言葉が、大根そのものになり、それを持っている女性になり、やがては人の状態を特定する言葉になり、ある概念を表しているとしか思えない言葉になったりという具合に変化していきます。名詞になったり動詞になったりでいい加減に思う人もあるかもしれませんが、実はそこに面白さがあります。詩作品というと、言葉をできるだけ厳密につかって曖昧さをなくすように考えがちですが、実際にはわたしたちの生活のなかで言葉は思いもしなかったようなつかい方をされて、精彩を放つということがあるものです。ただしそれは、言葉を発する人がそこにいてはじめて言えることです。「ごろん」の場合も、自分に引き寄せる強い力がはたらいているから、この言葉の面白さが際立っているのだと思います。

この後、1月には「冬のブランコ」、2月「大雪が降った」、3月「きょうは良き時」、4月「ひとの岸辺」と佳品が続きます。
なかでも「大雪が降った」は、読者であるわたしもぼたるさんといっしょに雪を見ることができる作品です。大雪の日に胡桃の木をカメラに収め、奥さんに画像を見せて長女の生まれた日も雪だったことを思い出す。書かれているのはそれだけのことです。たったこれだけのことを79行かけて書いているのですが、雪で視界が閉ざされがちななかに雪を纏った大きな胡桃の木が触れるばかりに近く見えて、奥さんがパソコンの画像を褒めている光景が見えて、そのうえ身重の奥さんを慮りながら雪の中の遠景をあるくまだ若いぼたるさん夫婦まで見えてきます。読んでいると、なぜか満たされた気持になります。こういう詩を書くひとはあまりいないのではないでしょうか。

「きょうは良き時」も好きな作品です。まったく違うのですが、語感の一部に、堀口大學の「夕ぐれの時はよい時」や室生犀星の「昨日いらしつて下さい」を思わせるところがあって楽しく読めます。詩作品を読んでほかの作品を思い起こさせるというのは、それだけその作品がゆたかなのだとわたしは信じています。これも「大雪が降った」同様、新聞を読んで奥さんと話し、近所の昔は海だったとされているところに行って自分たちの先祖のことを思ったりするという、描かれているのは極めて日常的な内容です。新聞記事をユーモラスに引いて奥さんとの会話を髣髴とさせ、記事に出てきた老人と45千年前の祖先と重ね合わせたりしているのは、平易に見えるけれど意識的な作品という気がします。

わたしが知っていたのは、中村登という人の詩を書く一面、このごろは古川ぼたるの名でわたしの前にあらわれていた人です。かつて妻とふたりで、何度か中村さんの姫宮のお宅にお邪魔したことがありました。そのたびに奥様の心づくしの食事をご馳走になったものです。いっしょに鍋をかこんだりしながら、いろんな話をして(それでも少しは詩や小説の話をしたでしょうか)笑いころげたりしました。今振り返ってみると、当時その中村さんと中村さんの書く詩は同じではなかったように思います。わたし自身もおそらく、当時書いていた詩とわたしとは違っていたでしょう。
しかし、12月号の「ごろん」以降の作品では、詩と中村さん本人との乖離をほとんど感じません。そして、あのときいっしょに鍋をつついていた中村さんと、「大雪が降った」や「きょうは良きとき」を書いたぼたるさんが地続きになっています。ぼたるさんは、きっとこういう作品をこれからもっともっと書こうとしていたのではないでしょうか。
それを読めないのが残念でなりません。



 


加藤 閑  初夏の夜




蝶死して新しき道地図に落つ

ゆふぐれに亡き人に逢ふ牡丹園

薫風や母の手にある鯨尺

青あらし人語を厭ふ夜明けあり

夏つばめ女生徒の列の最後尾

抱きとめて五月の風の重さかな

パリ祭の日にキャラメルの皮を剥く

野茨の根に洪水の記憶あり

浅き箱枇杷三列に眠りたり

この人を人形にしたき初夏の夜



さとう三千魚  [追悼]  ぼたるさんのこと



2013年4月28日12時45分にわたしのスマートフォンが鳴った。
ぼたるさんの携帯からの着信だった。

わたしは母の見舞いで秋田に帰省していて、
実家から車で30分程の仙北郡三郷町六郷の八千代酒造に土産の酒を調達にいっていた。

ああ、ぼたるさんだと安堵したような気分で電話にでると、ぼたるさんの奥さんの声だった。その時、奥さんがどう話されたかは動転していたため記憶にないがぼたるさんの突然の死を知らせる奥さんのか細い声でした。

古川ぼたるさん(本名 中村登さん)は、2013年4月28日午前2時31分に亡くなった。

わたしは動転して秋田から帰ってきて、加藤閑さんとお通夜に駆けつけました。
ぼたるさんの死から1ヶ月が過ぎましたが、いまも無力感に包まれています。

いまから30年以上も前に東中野にあった新日本文学会の鈴木志郎康さんの詩の教室にわたしは通っていて、そこでぼたるさん(当時は中村登さん)とお会いしたのでした。
その関係で後に、ぼたるさんや加藤閑さん、奥村真さん、井上弘治さんと「ゴジラ」や「大岡越前」という詩の同人誌に参加させてもらったのです。

昨年、2012年の早春に、ぼたるさんが北九州の転勤先から帰ってくるという連絡をいただいて何度かお会いして、ブログで同人誌をまた始めようということになったのでした。そして、ぼたるさんと加藤閑さんと三人で、2012年5月から「句楽詩区」という共同ブログを開始したのでした。

昨年の2012年3月16日に吉本隆明さんが亡くなった直後にもぼたるさんから連絡があり飲もうということになり、神田で飲んだことを覚えています。

その翌月の4月27日に5月から共同ブログをいよいよ始めるぞということになり、神田の葡萄舎でぼたるさんとお会いしたのでした。
そのとき、小さな紙片に書かれたぼたるさんの俳句を渡されました。

うすき口あつき口へと水温む

紙片には、ずいぶんと濃密なコトバがありました。
わたしはその紙片をぼたるさんから貰って、スマートフォンのカバーの内側にしまいました。いまも紙片はあります。

「句楽詩区」の編集は全て「句楽詩区」の編集運用はぼたるさんが担ってくれていました。わたしは原稿を書いてのほほんと毎月渡すだけでした。それで毎月15日にはきっちり発行していただいて、11回目の公開の後に私たち三人はまた上野で集まり、13号以降の編集会議をしたのでした。そこでは、毎回ゲストに原稿を依頼してみようということになり、まずはぼたるさんの推薦で魚住陽子さんに書いていただこうということになったのでした。

そして「句楽詩区」の12号が公開された後に、ぼたるさんの突然の訃報が届いたのです。

今回、改めて、ぼたるさんのかつての作品を読み返してみました。

第一詩集「水剥ぎ」
第二詩集「プラスチックハンガー」
第三詩集「笑うカモノハシ」
そして「句楽詩区」この一年間でに書かれた詩や俳句を読み返してみました。

読んでみて第一詩集、第二詩集のことばの身体が、第三詩集「笑うカモノハシ」で大きく変質しているのだなと思われました。
第一詩集「水剥ぎ」、第二詩集「プラスチックハンガー」のことばは1970年代の青年たちの肩で風を切るようなところがまだ感じられるのですが、
第三詩集「笑うカモノハシ」になるとそうした時代の身体から遠く離れて、
生活のなかから生まれたことばの力が感じられるように思えました。

別のことばでいうと、一度、死んでみてもう一度生きはじめたような、
とても透明なことばの世界があるのだと思えました。

第三詩集「笑うカモノハシ」から「ピクニック」という詩を全文引用してみます。

       ピクニック

陽射しが、すこし、弱くなって、Tシャツ、ビーチサンダル、で、すごせる、
野田さんは、朝、おそくおきて、奥さんの、尚子さんが、家のことをすませ
たら、林試の森に、出かける、オニギリ十二、三個、麦茶、オモチャで、出
かける、オニギリはだから、玉子ぐらいの大きさで、林試の森は、目黒と品
川の境、近くに、フランク永井の邸宅があったり、目黒不動もある、だだっ
ぴろくて、草と木があるだけの、とこなんだけど、野田さんの、住んでる家
からは、坂をあがって、坂といっても、まぬけな坂で、大通りに出て、露地
を行くと、もう、そこ、そこへきょうは行くんだけども、もう、とっくに太
陽がのぼって、太陽の光が、差しこんで、チリにあたって、濃くなって、ち
ょうど、写真のなかの、星雲のようで、野田さんは、無数の、チリの、チリ
のひとつの、うえに、なにかの、はずみで、ピクニックに来てしまった、朝
の、光の、波止際で、光を追い越させている、と、尚子さんも、秋一郎くん
も、生きている写真だ、あっという間に、なつかしくなって、ふたりの後か
ら、坂をあがって、大通りにでて、露地に入ると、もう、林試の森、チリの
うえを、歩いてるんだけど、カラスがいっぱい、いる、蚊が、血を吸って、
いる、秋一郎くんが、木蔭に、走って行く、尚子さんが、追いかけていく、
木立の緑が、光って、カメラ、野田さんは、もう、自分が、カメラになって
しまって、いる、光が、濃くなって、そこが、じんじん、じんじん、チリの
ようなものを、吸い込んで、吹き出して、ものすごいスピードで、止まって
いる。

ピクニックという詩を全文書き写してみてますますこの詩のすばらしさを感じざるをえません。野田さん一家を見つめる視線はとてもやさしくて、この世のものとは思えないほどです。

この時期にぼたるさんのひとつの大きな転換があったのだと思われます。

「誰かが去った後、わたしたちはいつも」という詩に、
ぼたるさんの注釈のような文章があるのですが、それも全文引用してみます。

生きているわたしが、この世をあの世だと思ってみても、なんの
意味もないことだが、そう感じて、そう思ってみると、ずいぶんと、
気楽な気分になるから、そう思ってみることは、他人には力のある
こととして作用しないだろうけれども、わたしには、なんとなくし
っくりする。実にきまりきった生活をしていて、きまりきったなか
で狭い社会を生きていると、つかみどころのない時間の海を漂流し
ているような気分になってくる。つかみどころがなくて、空を見上
げたり、太陽の光を見ていたりすると、この世があの世であって、
あの世のこの世で生きている人たちがいると思うことは、とても否
定できないことに感じられる。その方がはるかに落ち着く。ところ
が、あの世で生きている人たちがどんな生活をしているのかまるで
知らないのだから、あの世とこの世をむすぶ方法というのを思いつ
くとき、それが夢だったりするけど、この夢がまた、あまりに現実
的だった。

ぼたるさんの思考はこの世の真実を追求してこの世の原型まで到達しているように思えるのです。私たちの生活世界は突き詰めれば、このような二重性に突き当たり、この場所は私たちには逃れられない場所と思えるのです。

ぼたるさんは「句楽詩区」においても、ことばの新たな場所を模索していたのだと思えるのです。

特に、昨年の10月以降、鈴木志郎康さん、辻和人さん、今井義行さんの鼎談
「<現代詩>をもみほぐす 」や三人の詩について丁寧な言及を始めてからの作品
「冬のブランコ」(句楽詩区1月号)
「大雪が降った」(句楽詩区2月号)
「きょうは良き時」(句楽詩区3月号)
「ひとの岸辺」(句楽詩区4月号)
これらの作品は心の最深部にあるあの世のような場所にとどくことばで書かれていました。

ぼたるさん、また、お会いしましょう。
あの世で焼酎を飲みましょう。



さとう三千魚 「はなとゆめ」13





待つ


和解できませんでした
父とはずっと和解できませんでした


わたしが浪人したころ
秋田から出稼ぎに出てきた父と
蒲田の居酒屋で口論になったことがありました


わたしは父を愛したいと思っていました
わたしは子どものときから父を愛したいと思っていました
そんな父がセキセイインコを預けにきたことがありました
父が飼っていたつがいのセキセイインコをわたしの下宿に預けにきたことがありました


また
父が脳梗塞で倒れたあとに
ひとりで見舞いに帰省したわたしが帰るのを
二階の窓から見送り声をあげて父は泣いたことがありました


わたしは小さなつがいのセキセイインコを愛する父や
声をあげて泣く父を
愛しいと思ったことがありました
愛しいと思ったことがありました


でも
そんなこと
生きてるとき
一度も父にいうことができませんでした


いま


マリア・ユーディナを聴いています
マリア・ユーディナの平均律クラヴィーア曲集を聴いています


ヒトは


すべてが
終わるとき
なにを語るでしょうか

ヒトはすべてが終わるときなにを語れるでしょうか


わたしは終わりを待って

わたしはゆっくりと終わりを待って


それから
語りたいとおもいます


わたしはきみが愛しいと
わたしはきみが愛しいと語りたいとおもいます


2013年4月15日月曜日

句楽詩 4月号
 

ペン画:加藤 閑『干し柿』
 
さとう三千魚・「はなとゆめ」12
  加藤 閑  ・逃げ水
  古川ぼたる ・ひとの岸辺
         言葉を生きる(7)



さとう三千魚 「はなとゆめ」12

水色

木洩れ日のなかに
モーツァルトの地獄があります

ブレンデルは
幻想曲 ハ短調 K.396から
ロンド イ短調 K.511の小道へ抜けていきます

チキンスープ食べました
わたし今日もチキンスープ食べました

コンソメと
チキンと
舞茸と
漂白剤を買わなきゃ忘れずに

木洩れ日のなか
小道へ抜けていきます
アスファルトのうえにモコはしゃがんで放尿して
上目遣いにわたしを見ます

ブレンデルの瞳がわたし好きです
ブレンデルの瞳がわたし好きです

木洩れ日のなかこの世に起こったことすべてを見た
瞳で
沈黙して
口籠って
ブレンデルはそして笑いました

アルフレート・ブレンデルの眼鏡の奥の瞳が笑いました

子供の
日の
夏の
雄物川の
川底の
魚たちと

川底から水面を見上げたとき太陽が光っていました
川底から水面を見上げたとき水面に太陽は光っていました

水色はすべてだと思いました
光り輝やいていました

そして
わたし口籠って

わたし
笑いました
そしてわたし笑いました






加藤 閑  逃げ水


青空の縁錆びはじむ春の暮

桃咲きて道やはらかき故郷かな

母の着物桜のしたに横たはる

遠足の列から列へ鳥ことば

黒揚羽わが少年期を横切れり

東京の幸薄きひとの花ぐもり

劇場の奈落にあまく春よどむ

燕には双といふ字を書きにけり

行く春やあたらしき町地図にあり

逃げ水の消え去る先を過去といふ
 



 
古川ぼたる  ひとの岸辺



それはインドシナ半島
ベトナムだったかカンボジアだったか
記憶があいまいになってしまった
ラジオがそこを *注
ひとの岸辺といっていたのを
思い出します
ちょうど近所の
空家になった農家の前の
岸辺が草の色に染まり
大きなこいやふなを迎えて
にぎやかに卵を抱く頃
いつの時代のことだったのか
子供ができない夫婦の話でした

・・・・
あたりはいつものようにまだ
うっすらと夜が残っているけれど
ふたりは田んぼに出かけました
田んぼのあぜは草で埋まり
朝露にぬれ
まさかこんなところに
赤ちゃんが捨てられているとは思えません
けれどもその赤ちゃんは
子供ができないふたりを
待っていたように
大きく口を開けて叫びました
赤ちゃんの泣き声を聞いてふたりは
まさかと思いながら
呼んでいる声を探しました
やっぱり赤ちゃん
泣く赤ちゃんを草のなかから抱き上げて
ふたりも泣きました

子供のできないふたりはとにかく
すぐに家に連れ帰った赤ちゃんを
大切に大切に育てました
けれどある日
幼児にありがちな
高熱を出して苦しみました
親になったふたりも苦しみました
どうにかして助けたいと苦しんだそうです
病院もなければ
医者もいない
遠い遠い村だったので
父親になったそのひとは
自転車の荷台に箱をくくりつけて
熱に苦しむ子を
くくりつけた箱に寝かせて村を出ました
夜明け前から一昼夜と半日
闇のなかの道端に寝て
少し休み
闇のなかの道端に起きて
母親になったそのひとは
拾って育ててきたその子が
苦しむ自転車について歩きました
夜明け前から一昼夜と半日
明け方の道端に食べ
明け方の小川に汗を洗ったといいます
歩いて
歩き疲れて
強い日差しに焼かれながら
行ったといいます
流れた汗は乾ききって塩になり
着いたといいます
初めて見る病院に
遠い遠い村を出てからの
一昼夜と半日の道は
ひとの岸辺だったとラジオがいってました
・・・・
行ったというのを聴きながら
着いたというのを聴きながら
わたしの涙もふくらんできて
ぬぐわないで
ひとの岸辺に
そのまま流してやることにしました

*注:数年前にラジオで聴き、話の筋だけが記憶にあります。



言葉を生きる(7)

『鼎談〈現代詩〉をもみほぐす そしてもっと詩を楽しむ 第2回』(鈴木志郎康氏、辻和人氏、今井義行氏)のなかで取り上げられていた鈴木志郎康氏の詩集『少女達の野』について、読むことの試行をしようと思いました。詩の一篇一篇について、自分自身のためのノートとして、またの日に振り返って新たな発見を付け加えられるように。詩を読むことの無償の楽しみとして。

処女の乳首

うれしい水に
足を浸して、波子さんは
せつない
――ナゼ、オ月サマバカリ見テイルノ
――痛みが引くから
波が血脈をしづめて
中空に浮ぶ円形の反射物
この反射光に身を浸していると
熱がないので
なにもかも静かに固まって行ってしまう
冷たく青く澄んでいく中にいると
温もりたい
なつかしいものがほしい
真紅の円形
隠されているあなたの処女の乳首
見てごらん
波は砂浜にくだけて消えはしない
浜から山へと稜線を辿れば
陸の波が見える
地表の波が見える
地表は波打っている
遠い時間を見透かせば
激しく波打っている
草原の草が海風に靡いているのとは逆向きに
明日は地震が来て
山稜が海に靡くだろう
反射を見ていればわかる
ぼくの痛みは
地底の断層の歪みなのだ
――オオ、波子サン
あなたの、高まる乳房の
朝日の、来迎の乳首をのせた高波で
波頭かがやかせ、その高波で、巻き込み、飲み込み、ぼくのからだをぜんぶ波動にしてほしい
青く冷たく澄みきったこの反射光の中で
真紅の、あなたの処女の乳首が
ほしい

一連36行の作品である。語られていることを整理する為に、意味の塊ができるところまででいくつかの行単位を作ってみる。

「うれしい水に/足を浸して、波子さんは/せつない/――ナゼ、オ月サマバカリ見テイルノ/――痛みが引くから」

カタカナ表記にされた問い掛けの主体は、語調から波子さん。波子さんが誰かに問いかけたら、「痛みが引くから」と答えた。水→波→(地球)→月が登場して、「痛み」が語られるべきモチーフとして始まる。波子さんは波平さんと夜の浜辺で語らっているのかもしれない。ハネムーンにしてはそっけない会話なので、違うのでしょう。「うれしい水」というのはどんな水かわからないが、納得させられてしまうし、波子さんというネーミングがユーモラスな軽さを感じさせる。が、次の行は重く沈む。

「中空に浮ぶ円形の反射物/この反射光に身を浸していると/熱がないので/なにもかも静かに固まって行ってしまう/冷たく青く澄んで行く中にいると/温もりたい/なつかしいものがほしい」

もちろん、中空に浮かぶ円形の反射物はオ月サマ。月を意味的な像として提示し、その意味を受け取る主体の状況を作り出す。次の行為・言葉へと転換を促すために。月光のなかでは太陽がなつかしい、温もりたい。

「真紅の円形/隠されているあなたの処女の乳首」

さて、「円形の反射物」が月ならば、「真紅の円形」は像としては太陽。その間にある地球、海。ところがすぐに「隠されている処女の乳首」と続けて、並列する。語り手であるぼくを温めるなつかしいものは太陽ではなく、処女の乳首だと人間のほうに引き戻す。

「見てごらん/波は砂浜にくだけて消えはしない/浜から山へと稜線を辿れば/陸の波が見える/地表の波が見える/地表は波打っている」

処女の乳首をもったあなた=波子さんに「見てごらん」と語りかける。波が砂浜にくだけるのを、誰でも知っている。消えることなく寄せ返す波が続く。けれども、同じように地表の波を見ることはできない。見えない地表の波を、あなたに見てもらうにはどうしたらいいのか。ここが詩人の想像力、万年の時間を秒に縮めて見ればいい、言葉でしかできない映像だ。

「遠い時間を見透かせば/激しく波を打っている/草原の草が海風に靡いているのとは逆向きに/明日は地震が来て/山稜が海に靡くだろう」

万年の時間を秒に縮めて見る地表の波とは地震。海風が陸に向かって吹いている。しかし、「明日は地震が」来るという、それがどうしてわかるのか。わかるためには「ぼく」が地震の原因であればいいことになる。論理的な展開。

「反射を見ていればわかる/ぼくの痛みは/地底の断層の歪みなのだ」

地底の断層が歪むからぼくは痛むのではなく、ぼくは歪みそのもの。因果関係ではない。「反射を見ていればわかる」。太陽光の反射である月の満ち欠けは地球の水面と地表を引っ張るから、地底の断層の歪みである「ぼくの痛み」具合で、それが地震を引き起こすかもしれないことがわかるのだ。ぼくは活断層の歪みだ。

「――オオ、波子サン」

このカタカナ表記の発語の主体は「ぼく」だろう。と、すると、4行目の「――ナゼ、オ月サマバカリ見テイルノ」というのも「ぼく」なのか。このばあいの「――波子サン」は続く行を読むと「ぼく」であるとするのが自然だが、4行目はやはり、波子さんの言葉としておきたい。「ぼく」が「オ月サマバカリ見テイル」ので、波子さんは「せつない」と。

「あなたの、高まる乳房の/朝日の、来光の乳首をのせた高波で/波頭かがやかせ、その高波で、巻き込み、飲み込み、ぼくのからだをぜんぶ波動にしてほしい/青く澄みきったこの反射光の中で/真紅の、あなたの処女の乳首が/ほしい」

朝日にきらめく波。波子サンを海の波の擬人化とし、ぼくを波の寄せ来る陸の擬人化というようにしてしまうこともできるが、波子さんとぼくの間に、なにがしかの物語が展開されたわけではない。「ぼくのからだをぜんぶ波動にしてほしい」、「あなたの処女の乳首が/ほしい」という「ぼく」の欲望が書かれて終わる。言葉を地球規模に運動させた詩、という印象。

月と地球(海・地表・地底)と隠れた太陽との関係が、ぼくと波子さんのわずかな会話をはさみ、「ぼく」が地の文を語るという構造になっている。
「うれしい」→「水」→「浸す」→「波」→「せつない」→「月」→「痛み」→「血脈」→「反射光」→「熱」→「固まる」→「温もり」→「なつかしいもの」→「真紅」→「処女の乳首」→「山」→「稜線」→「陸」→「地表」→「波打つ」→「時間」→「海風」→「地震」→「地底」→「断層」→「歪み」→「波動」。
詩は発語の周縁を手繰り寄せ、手繰り寄せられた語彙が指示する物の論理や感情の論理を展開させることで力強く現実感を表出する。詩のモチーフは「断層の歪み」である「ぼくの痛み」。

この詩のために書き下ろされた散文「野ノ録録タル」には、次のようなことが書かれています。昭和19315日発行、ヴォーン・コーニッシュ博士著・日高孝次訳『海の波』を読んだことが語られている。コーニッシュ博士は移り住んだ海岸から見る海の波、川底の砂の波などに魅力を感じ、「私の時間は私が勝手に使っても構はない」、それで、その波動現象を研究しようと決心する。しかし、数年するうちに、美しい家を捨てて波の研究の旅に出るか波の研究を放棄するかの選択を迫られることになるが、波の研究をするために旅に出る。

『「私の時間は私が勝手に使っても構わない。」わたしはこのことばに直撃弾を受けた。』とある。また、『それにしても、コーニッシュ博士の本を読んでいると、風速を時間で表すなんて、余裕があっていいなアと思ってしまう。「私の時間は私が勝手に使っても構わない」ってわけなんだろうな。』と結ばれている。

自分に与えられた時間をぜんぶ自分の勝手=自分だけのものとして使えたら、という願望を持っていながら、そうすることなかなかできない。現実の生活を支えるために稼がなくてはならない時間、現実の生活を支えるために身の回りの家事やらなにやらをしなければならない時間、自分の時間でない時間の方が、大概の人の生活では圧倒的に多い。
詩の中の「ぼく」はそういう日常を支える時間の層と自分が勝手に使える時間の層との断層=その歪みを宇宙的な言葉にしている、と読むことが出来るのだった。